夏みかんの木と、いなくなったものたち
はじめに
私の実家は、東京23区内にあり、小さな裏庭を持っている。そこには、かなり大きな夏みかんの木が1本あり、年によって数は違うが、毎年実がなる。
今年は、あまり多くはなかったが、それでも10数個の実がなり、そのうち4つほどを分けてもらって、妻がその実を使ってオレンジ・マーマレードを作った。さっそく、朝食時にパンに付けて、おいしくいただいている。
1.裏庭に夏みかんの木が生えている理由とは
実家で母と夏みかんについて話をしている時、私が、なぜ裏庭に夏みかんの木が生えているのか、と母に尋ねた。すると、母が次のように言った。
「あら、あれはあなたのために私が植えたのよ。」
私が不思議に思って、「どういうこと?」と問い返すと、母は次のように答えた。
「あなたが子どものころ、アゲハチョウの幼虫を育てていたでしょう?その時、幼虫のエサにするために、夏ミカンの葉っぱがたくさん必要になったのよ。」
「はじめは、夏ミカンの木を持っているご近所に、その都度もらいに行っていたの。」
「でもだんだん面倒になってきたので、私が夏みかんの枝をもらってきて、裏庭に植えたの。あの木はその時の「枝」が大きくなったものなのよ。」
そういえば、私は子どもの頃、アゲハチョウの幼虫を、確かにたくさん育てていた。幼虫たちはたいへんな大食家で、エサのミカンの枝は、たちまち食べつくされてしまっていた。
そのことはよく覚えていたが、母が幼虫のエサのために、ご近所まで夏ミカンの枝をもらいに行っていたことや、裏庭に夏ミカンの枝を植えたことは、すっかり忘れてしまっていた。
私が子どもの頃は、まだ昭和の時代だったが、アゲハチョウがけっこうたくさん飛んでいて、近所で彼ら・彼女らの幼虫がたくさんとれた。昆虫が大好きだった私は、その幼虫を取ってきては、育てていたのだ。
アゲハチョウの幼虫は、頭をすこし手で触ったりするなどして刺激を与えると、敵などを威嚇して追い払うために、黄色い角のような突起物を出し、そこから独特の「臭いにおい」を出す。その匂いは決して愉快なものではないのだが、時々彼らを怒らせては、「臭い臭い!」などと言って遊んでいたものだ。
幼虫たちは、やがて蛹になり、そして羽化をして美しい蝶になった。それを見るのが楽しくて、幼虫を育てていたのだが、やがて興味が薄れてしまい、幼虫の飼育をやめてしまった。
実家の裏庭に植えられた夏みかんの木は、葉っぱを提供する、という役目を終えた後も、成長を続けた。そして、数十年後になって、立派な実をたくさんつけるようになった、ということなのである。
2.夏みかんの話を聞いて思い出したスイス・ジュネーブのこと
母から実家の夏みかんの木にまつわる話を聞いた後、私はなぜか、かつての海外旅行で訪れたスイスのジュネーブのことを思い出した。
当時はまだ20世紀で、季節は初夏だった。ジュネーブの街は美しかったが、私は特に強く印象を受けたのは、多くの家々の門や塀に、多くの美しい花が飾られていたことだった。
ジュネーブの街は、単に美しいだけでなく、それぞれの家が思い思いに飾っている花々が、その美しさに、文字通り「花を添えて」いたのである。
この当時、私は東京都内に住んでいたが、まだ東京都では個人の家庭が、自分たちの家の門や塀などに、花を飾っていることは少なかった。そのため、私はスイスの人たちは気持ちにゆとりがあり、成熟しているなぁ、という印象を受けた。
「日本とは違うなぁ。日本もやがてこうなれるのかなぁ。。。」
そんな風に思ったものである。
3.日本でも、花を飾る家は増えた。しかし・・・
その後、21世紀に入ってからだと思うが、日本でも自宅の門や軒先などに花を飾る家が急速に増えてきた。
今は冬の真っただ中だが、春になると、多くの家の前には、美しい花が飾られたり、小さな藤棚が作られたり、あるいは梅や桜の花さえも個人宅で見られるようになってきた。
それは、日本人も心が豊かになり、成熟してきたためではないか、と私は感じている。
しかし、春になって23区内がいろいろな花で彩られるようになった一方で、めっきり少なくなったものがある。それは、チョウやハチなどの昆虫の姿である。
私が子どもの頃は、23区内にも、まだたくさんの昆虫がいた。私はアゲハチョウの幼虫だけでなく、カマキリの卵を取ってきて、それを自宅で孵化させたり(カマキリがたくさん出てきてたいへんでしたが)、ミツバチをからかって刺されたりすることも、しょっちゅうであった。
しかし、街中でアゲハチョウを見たり、ハチが飛んでいたりする姿を見る機会は、大きく減少したように思う。
23区の街中に、美しい花がたくさん飾られている一方で、それを求めて飛び交う昆虫がほとんどいない。
実家には、大きな夏みかんの木があり、その脇には小さいが美味しい実をつける金柑の木も生えている。そうした木には、アゲハチョウは卵を産み付けて、葉っぱを食べてしまう可能性があるはずなのだが、チョウが見当たらないので、その心配はほとんどないと言っていい。
私は、複雑な思いで、実家の裏庭に立って、それらの木を眺めるのであった。