t-yamaguchiの日記

書評や、気になったことをブログや日記に書きます。

なぜ大相撲は「スポーツ」と言い切れないのか――審判制度から考える

はじめに

このブログを書いている今、大相撲の初場所が行われており、連日ニュースでも大きく取り上げられている。
NHKのスポーツコーナーでも、まず大相撲の話題から始まることが多い。
それを見ていて、ふとこんなことを思った。

「大相撲って、スポーツなんだろうか?」

1.大相撲はスポーツなのだろうか?

最近、次のような記事を読んで、なるほどと思わされた。

相撲は神事を起源としていない。本場所前日に行われる「土俵祭」も、神職は関与していない。
「相撲は神事か、スポーツか」と問われることがあるが、どちらでもない。本質は「興行」である。
——(「女人禁制の今昔 鈴木正崇(1)土俵と女性の近現代史 伝統か差別か 絶えぬ議論」日経新聞1月7日夕刊より抜粋)

この記事では、相撲は「神事」でも「スポーツ」でもなく、「興行」であると明言されている。

確かに、江戸時代の勧進相撲を起源とし、人を集めるための見世物だったことを考えると、納得できる部分もある。

ただ一方で、こうも思ってしまう。

柔道だって、もともとは「武道」であった。
しかし今では、明確にスポーツとして扱われ、オリンピック競技にもなっている。

そう考えると、大相撲も「今はスポーツだ」と言ってもよいのではないか。
そんな疑問が浮かぶのも自然ではないだろうか。

2.スポーツと呼ばれるための条件とは?

そこでいったん、「そもそもスポーツとは何か」を整理してみたい。

私なりに考えると、スポーツと呼ばれるためには、少なくとも次のような条件が必要だと思う。

  1. 身体性があること(フィジカルな競技であること)
  2. 勝敗が明確であること
  3. ルールが明確で、公平に運用されていること
  4. 訓練や努力によって上達すること

この観点から見ると、大相撲はかなり多くの条件を満たしている。

激しい身体接触があり、勝敗は明確で、稽古なくして上達は不可能。
そう考えれば、「スポーツではない」と言い切るのは難しい。

では、何が引っかかるのか。

それは、「公平性」の部分である。

3.大相撲の審判制度が抱える構造的な問題

私が大相撲を「スポーツと言い切れない」と感じる最大の理由は、審判制度にある。

まず、大相撲には「部屋別総当たり制」がある。
これは、同じ部屋に所属する力士同士は原則として対戦しない、という制度だ。

その結果、力士は強い帰属意識を持ち、部屋は一種の「チーム」のような性格を持つことになる。

そしてもう一つ重要なのが、審判の存在だ。

大相撲の審判(勝負審判)は、すべて親方で構成されている。
親方とは、かつて力士だった人物であり、現在はそれぞれの部屋に所属している。

つまり――

  • 力士は部屋に所属する
  • 親方はその部屋を率いる立場
  • その親方が、他の部屋の力士も含めて審判を務める

という構図になっている。

これは、野球やサッカーで言えば、
「各チームの監督が審判を兼ねている」ような状態に近い。

もちろん、実際に不正が行われていると言いたいわけではない。
親方たちは誠実に職務を果たしているはずだ。

ただし問題は、

「疑義が生じ得る構造になっている」

という点にある。

スポーツにおいて最も重要なのは、
「実際に公正であること」だけでなく
「公正であると誰もが納得できること」だからだ。

4.大相撲は、これからどうあるべきか

もし大相撲が「興行」である、という立場を明確に取るなら、
現在の制度でも大きな問題はないのかもしれない。

実際、プロレスでは審判の判定が演出の一部であることを、観客も承知している。

しかし、大相撲はそうではない。

スポーツとして扱われ、国際的な注目も集め、
近年では海外公演も行われている。

そうである以上、今後ますます
「スポーツとしての透明性」が問われていくはずだ。

その意味で、私は次の点が重要になると考えている。

  • 審判の独立性を高めること
  • 行司・審判を協会直属とし、部屋との距離を明確にすること
  • 少なくとも、自分の部屋の力士が出場する取組では審判を務めない仕組みを検討すること

こうした改革は簡単ではないだろう。
しかし、もし大相撲が「スポーツ」として語られ続けることを望むのであれば、避けて通れない問題でもある。

おわりに

大相撲は、日本が世界に誇る文化であり、長い歴史を持つ伝統でもある。
その価値自体を否定するつもりはまったくない。

ただ、「スポーツとして見るのか」「興行として見るのか」で、求められる基準は変わってくる。

今回の初場所を見ながら、そんなことを考えた。

皆さんは、大相撲をどのように見ているだろうか。