t-yamaguchiの日記

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『お上の事には間違いはございますまいから』――森鴎外『最後の一句』を読み直す

最近の日本の情勢を見ていて、ふと、森鴎外の「最後の一句」を思い出した。

かなり以前に読んだ短編だが、なぜか今になって、あの物語の一場面が頭から離れなくなった。同小説は、今では青空文庫に収録されていて、インターネットで気軽に読むことができる。

本稿は書評ではないため、同小説を読んだことがない方のために、まず簡単にあらすじを紹介したい。

既読の方は読み飛ばしていただき、ネタバレが気になる方は先に青空文庫で原文をご参照いただきたい。

.「最後の一句」のあらすじ

時代は18世紀半ば、江戸時代。
ある船乗り業者(船を使って輸送を行う商人)が、積み荷を横領した罪で告発され、死罪を言い渡された。

その男には妻と養子一人を含む五人の子どもがいたが、最年長の長女・いちが、養子を除く四人の子どもが父の身代わりとなって死罪を受けるべきだと申し出る。そして、自ら書いた「願書」を奉行所に提出する。

奉行所では、この願書が誰かの入れ知恵や指図によるものではないかと疑い、関係者を白洲に呼び出して尋問を行う。取り調べ役は、いちに対し「人に教えられたり、相談したりしたのではないか。そうであれば正直に言え」と厳しく問いただす。

しかし、いちは終始冷静に「申したことに間違いはございません」と答え、もしもお前が死罪になれば、直ちに命を失い、二度と父親の顔を見ることはできないのだぞと念を押されても、それでよいと答える。そして最後に、こう言い添える。

「おかみの事には間違いはございますまいから」

この一言は、その場にいた役人たちの心に強く残ることになる。

最終的に、子どもたちが身代わりになることはなく、父親も死罪を免れ、「市中追放」という処分にとどまった。

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.なぜ「最後の一句」は役人たちを動揺させたのか

さて、この「最後の一句」については、同小説の中では、それを聞いた役人たちの反応として、実際には次のように書かれている。

心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。

しかし献身のうちに潜む反抗の矛先は、いちとことばを交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。

(原文より)

つまり、最後の一句については、「役人たちの心の中に反響した」とか、「直接対話した役人だけでなく、その他の役人一同の胸をも刺した」とあるだけで、具体的に「何が」「なぜ」江戸時代の役人たちの心に突き刺さったのかということについては、具体的には書かれていない。

以下では、この「最後の一句」がなぜ役人たちを動揺させたのかについて、私なりの解釈を述べたい。

(1)目安箱という“制度的背景”

まず、この小説に書かれている事件が起きたのは、元文三年、すなわち西暦1738年であり、時の将軍は徳川吉宗だった。徳川吉宗が行った制度の一つに「目安箱」がある。目安箱は、広く庶民(※)の意見を吸い上げることを目的とした制度だったが、この物語の長女・いちは、この制度を使って「願書」を提出したのである。

(※)この時代には、「国民」という概念は無かったと考えられるので、このように呼ぶことにする。

この時代は、徳川幕府が「ご公儀」、すなわち「お上(かみ)」として権力をふるっていた時代であり、裁判に関して言えば、「お上」が一方的に採決を下し、国民はそれに従わざるを得なかった。ところが、目安箱が置かれたために、「お上」が一方的に権力を振りかざす、ということが、場合によってはできなくなった。そこが第一に重要な点であると考えられる。

(2)異議申し立てではなく“身代わり”だった点

さらに、この裁判のケースでは、裁定そのものに異議をさしはさむのではなく、子どもたちが父親の身代わりになりたい、と言い出した。この点も重要である。なぜならば、この裁判を取り仕切った役人たちは、自分たちの裁定に対する直接的な異議ではなかったため、油断があった、と考えられるからである。

(3)役人側の油断

彼らは、子どもである「いち」たちが、願書を出したことについて、いちたちが、誰かから教唆されて、身代わりになることを願い出たのではないか、と疑った。そのため、「子どもたちが父親の身代わりになって死罪を受ける」ということの意味や重大さを、沈着冷静に認識することができていなかった。これが、最後の、そして最も重要な点である。

役人たちは、父親の身代わりになる、と申し出た長女・いちに対して、不用意に、「父親の身代わりになったら、すぐに殺されてしまい、二度と父親の顔を見ることもできない。それでよいのか」と問う。この発言には、相手が子どもである、という油断もあったのだろう。それに対していちが問い返した言葉は、役人たちの不意を突いただけでなく、物事の本質を問いただすものだった。

この裁定を行った役人たちは、恐らく先例に従って、いちの父親の死罪を決定したのであろう。そして、それが人一人の命を奪う、という重みがあるものだ、ということについて、そこまで熟慮していなかったと思われる。さらに、罪人の子どもたちが、4人も身代わりになる、という申し出をしたことに対しても、その重みを真剣に考慮していなかった。

いちの「最後の一句」はそれを直接的に問うものだったのである。

(4)長女・いちが役人に問うたもの

長女・いちが奉行所のお白洲で問うたのは、「お上の(やる)事に間違いはございますまいから」、すなわち「ご公儀の皆さんの行うことは、すべて正しいことでしょうから」ということである。

行うことが全て正しい、ということはすなわち「無謬」ということになる。いちは役人に「あなた方は無謬のはずですから」と問いかけたことになる。

そこにはどんな意味があったのだろうか。

この事件が起きたのは、既述の通り、18世紀中ごろで徳川幕府の時代であった。徳川幕府は、もちろん、最終的には、武力によって治安を維持していたわけだが、この事件についていえば、現代で言うところの警察活動と、刑事司法の世界のレベルの話であり、単なる武力による治安維持、ということを超えた支配があった、ということを示している。

すなわち、「ご公儀」と呼ばれた徳川幕府は、「お上」として、庶民に対して「自分たちは知的エリートとして、正しいことをする。自分たちにまかせておけば、万事正しい治安維持活動が行われる」と信じさせていた、ということになる。もちろん、それはあくまで虚構であり、間違いもする訳であるが、そのような「虚構」が存在することで、治安が維持される、という側面があったはずである。

Ⅲ.現代に引き寄せて考える

さて、私がここで取り上げたいのは、この短編小説が現代の日本社会に問うものである。

私がここで指摘したいのは、現代においても、“お上”は「正しいこと」をするという信頼感が欠かせない、ということである。さらにここで何が「正しいこと」なのか、という点も併せて重要になってくる。

多くの識者が一様に指摘しているように、現代社会では不確実性が増している。そうした状況下において、「次に何をすべきなのか」ということを判断することは、極めて難しい。

さらに、短期的な視点に囚われず、長期的な視点に立った対応を行うことも重要だが、その判断も決して容易ではない。

(1)現代の事例──コロナ対応をめぐって

例えば、新型コロナウィルスのまん延は、まだ記憶に新しいが、このような前例が少なく、かつ国レベルでの対応が不可避である事象に対しては、やはり国が「正しい」対応を行うことが不可避である。

新型コロナウィルスへの対策では、「緊急事態宣言」によって、幅広く行動制限が行われ、また国民に対してワクチン接種が行われた。しかし残念ながら、そのいずれに対しても、批判や反発が起きることになった。特に、ワクチン接種については、「反ワク」という言葉ができるほど、激しい反対・反発が起きる結果となった。

なぜ、このような結果となったのか、ということの原因についてはいろいろあると考えられるが、突き詰めれば「国に対する信頼感の欠如」ということに帰結すると思われる。

江戸時代と違って、現代は民主主義の時代であり、インターネットやSNSが普及している。オールドメディアだけでなく、Youtubeなどの様々なメディアが時の政権に対する批判をする。そうした状況下で、国民の支持を広く受けることは容易ではないだろう。

(2)「代理人」であるという視点

こうした状況下で、政府の行う施策が、国民から「正しい」と思ってもらうためにはどうすればいいのだろうか。それは、国民から負託を受けるエージェント、すなわち「代理人」として行動している、と理解してもらうことである。そして、代理人として、国民のためになることをする。それが「正しいこと」の内容となる。

政府は、国民の「代理人」として行動するべきである、と指摘しているが、その際に参考となる考え方として、「プリンシパル・エージェント問題」、あるいは「エージェンシー問題」と呼ばれる問題がある。

これは、依頼人(=プリンシパル)は、「自己の利益のために行動してほしい」と考えるが、代理人(=エージェント)がそのように行動しない、あるいは、そのように見えない、という問題が発生する、つまり、国民から見て、政府が国民のために政策を行っているようには見えなくなる、ということを意味する。

では、この「プリンシパル・エージェント問題」を克服し、国民から「正しいことをしている」と見てもらえるためにはどうすればいいだろうか。この記事を書いているのは、2026年1月だが、現時点でこの「プリンシパル・エージェント問題」の克服方法について参考になるのは、アメリカのトランプ大統領だろう。

(3)“誰の代理人か”という問い

トランプ大統領の場合には、国民全体と言うよりも、いわゆる“MAGA派”などの「一部国民」のエージェントに徹していると考えたほうがいい。同大統領は「アメリカ・ファースト」と言っているが、アメリカ全体と言うよりも、上記の「一部の国民」の利益を最優先にしているのであろう。

その結果、トランプ大統領は、その「一部の国民」からは代理人として深く信頼されているように見える一方で、全体としては国民の分断を深めており、正しいやり方とは言えないだろう。

トランプ氏のやり方は、一種の「反面教師」として参考にすべきではないだろうか。自分たちの支持者以外に対しては、辛抱強く、説明を尽くしていくしかないだろう。

そうした場合に必要な姿勢としては、やはり自分たちが「正しい」と考えることをする一方で、もしも間違いが見つかった場合は、真摯にそれを認めて修正することであろう。

最後の一句」のケースでも、いちの父親は最終的には死罪を免れ、いちたちも罪に問われることはなかった。それは、役人たちが最終的には、自分たちの間違いを認めた、ということになるのだと思われる。

最後に

この短編小説で、著者である森鴎外は、長女・いちが放った「最後の一句」について、「マルチリウム」あるいは「献身」という言葉を使って、その背景を説明している。

しかし、すでに述べたように、著者が問いたかったことは単なる孝行や自己犠牲の物語ではない、というのが私の解釈である。

いちの言葉――「おかみの事には間違いはございますまいから」――は、役人たちが行った裁定の正当性を鋭く問い返し、それによって自分たちがどのような責任を社会に負っているのか、ということを、役人たちに再認識させたのではないか。そう考えた。
現代日本においても、為政者である政府に所属する人々は、「正しいこと」をすることが求められており、この場合それは、国民のためになることでなければならない。

民主主義国家においては、常に野党等の反対勢力や、インターネットやSNSなどからの厳しい批判にさらされており、「正しいこと」をするのは容易なことではない。丁寧に説明を尽くしていく一方で、もしも間違っていた場合には真摯にそれを認めて修正することも求められる。

最後の一句」は単なる自己犠牲や献身の物語でもなく、為政者のあり方を糾弾する物語ではない。

「正しいこと」とは何か、どうすればそれを行うことができるのかを、静かに問うているのだと、私は考える。